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漱石『坊っちゃん』の読書会 (9/100)

 
  2017/12/08
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地元での読書会、しかも東横線エキウエの図書館での、とってもご無沙汰の開催。ぼくが主催する読書会は、これで通算114回目になる。


取りあげたテキストは、漱石『坊っちゃん』。
さて。
「なあんだ」と即座に思った人のうち、いったいどのくらいこの小説を手にして読んだことがあるんだろう。どれだの人が最後まで読み通したことがあるのか。

タイトルは知っている、
あらすじもまあまあ知っている(と思っている)、
読みたい気持もあるが、いまさら機会もないし・・・。

古今東西の「名作」と呼ばれる作品はいつも〈なんとなく〉のイメージで語られることが多い。
要するに、あまりに有名なために最後まで読まれることが、意外と少ない。名作の悲しい性だねえ。そしてそれ故に、世間のイメージが先行し、ぼくらはそのイメージに取りつかれてしまっている。
たとえば、この『坊っちゃん』なら「痛快青春小説」というように。

ほんとうにそうかなあ。

そんな「名作」たちの数々を改めて読んでいこう、というのが昨夜の読書会の趣旨である。
題して、「はじめての文豪」。
「初読」「再読」の機会とともに、「名作」たちの意外な側面(ダークサイドも含めて)が見えてくるかもしれない。
たとえば、どこが青春小説? みたいな。


なぜ『坊っちゃん』かというと、昨年2016年は漱石没後100年、今年2017年は生誕150年にあたる、ダブルメモリアルイヤーなわけですね。なので、初っ端は漱石でいってみようかと。
ぼくは今回で読むのは3回目。
この作品は「痛快な青春小説」などといわれるが、前回読んだ時の印象は「意外に暗い話だな」と感じたことを覚えている。

そして今回読了してみて、やや印象は違うものの、少なくとも痛快な青春小説ではないと確信した。
むしろ、そのイメージを裏切る展開だ。

東京からやってくた若者が、自らは「江戸っ子」だという自意識のもとに、東京と田舎の物事・人びとを比較しこきおろし、その土地に馴染めず周囲の人と諍いになっても、簡単に和解せず、くしゃくしゃした気持のときには東京に残っている乳母の清に思いをはせる。
最後は中学校の教師たちと暴力沙汰(坊ちゃんは天誅と言った)を引き起こし、松山という土地を「蛮地」「不浄の地」とまで言い放って、未練なく東京へと舞い戻って、教師という職も辞してしまう(なのに、松山の人たちは漱石大好きなのだよね)。転職先は鉄道エンジニア。
赴任から辞職まで、この間わずか1ヶ月である。

では、なぜこの小説が読まれるのかというと、そのひとつは漱石の「文章力」の賜物だろうと推測している。
読んでいて、リズムが小気味よいんですね。
漱石はこの小説を10日間で一気に書いたという。その勢いがこちらにも伝わってくる。
そして、この小説は一種のラブレターともいえる。松山と松山の登場人物たちに対する殺伐とした態度と比べて、清への愛情と、「坊っちゃん」自身を〈承認〉してほしい心理に満ちている文章が、チョコチョコと顔を出す。
これはもう、東京にひとり残してきた乳母の清(きよ)に対する「出せなかった手紙」と位置づけられるのではないか。

そういう視点で見ると、この『坊っちゃん』という小説、「マザコン小説」といってもいいのではないかしら。
少なくとも「痛快な青春小説」というのは、ぼくの印象からはかけ離れているのだ。

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