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なぜぼくは芥川賞候補作を読むのか

 
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昨日で、第157回芥川賞候補作の4作品をすべて読み終えました。 候補作発表が6/21でしたから、読み終えるのに3週間近く費やしてしまいました。

直木賞も含めて候補作とぼくの感想(リンク貼ってます)は次の通り。

【芥川賞】
今村夏子「星の子」(小説トリッパー春季号)
温又柔(おんゆうじゅう)「真ん中の子どもたち」(すばる4月号)
沼田真佑「影裏(えいり)」(文学界5月号)
古川真人「四時過ぎの船」(新潮6月号)
【直木賞】
・木下昌輝「敵の名は、宮本武蔵」(KADOKAWA)
・佐藤巖太郎「会津執権の栄誉」(文芸春秋)
・佐藤正午「月の満ち欠け」(岩波書店)
・宮内悠介「あとは野となれ大和撫子」(KADOKAWA)
・柚木麻子「BUTTER(バター)」(新潮社)

芥川賞直木賞の銓衡は年に2回(夏冬)にあります。
もともと両賞は、総合雑誌「文藝春秋」を創刊した菊池寛が1935(昭和10)年に創設したもので、いわゆる「二八対策」(2月8月はモノが売れないことにたいする対策)としてつくったものです。

1回の銓衡につき、候補作は4~6作挙げられますから、年に8~12作品がノミネートされ、ぼくはそれらをここ数年ずっと読みつづけています。直木賞も含めれば、数はその倍となります。

なぜ、ぼくは芥川賞直木賞の候補作を読むのか。

それは、ひとえに芥川賞直木賞の銓衡システムがゲーム性を帯びていて面白いからです。

この〈面白い〉というのは、作品が面白いというのではなく、候補作が前もって発表され、作品は誰にでも手に入れられ(芥川賞に限っては字義通りではないのですが)読むことができ、そしてその善し悪しを個人が判断できる。
もちろん、銓衡自体は委員たちが行いますが、外野のわれわれは「あーでもないこーでもない」とピーチクパーチク勝手に騒ぐことができる。そこにゲーム性とコミュニケーションの余地が付与されているのです。

良くも悪くも、ノミネートされた作品は時代を背負っています。作品は出版社の文芸編集者のそれなりの目を通過してきたものですから、ノミネートされた理由があります。それを味わいつつ、作品も味わいつつ、誰が受賞するのかを中てていく。

ここから先は半分以上とってつけたような理由になります。なぜなら、〈効能書き〉みたいになってしまうからです。

ひとつは、小説を読む鍛錬になること。銓衡のあと、委員による「選評」が発表されますが、委員たちはそれぞれどんな点に着目して善し悪しを判断したのかということが、読むときのポイントとして勉強になります。

もうひとつは、内容をアウトプット(書くだけでなく会話することも含めて)することを前提として読むなら、感想文(書評)=アウトプットの訓練にもなること。

さらには、読書(選書)の幅を広げることにつながるということ(なにを読んで良いか解らないという向きには、まず候補作から手にしてみるといい。これは芥川賞直木賞だけでなく、たとえば本屋大賞とかでもいい)。

もっとありそうですが、〈効能書き〉はこのくらいにしておきます。
あえて言いますが、時代を代表する小説を味わうことは、ビジネス書や実用書、自己啓発書とは対極の〈効能〉があるとぼくは信じていて、0か1か、即効性があるかないかとは別次元の奥深さと楽しみとがあると考えています。
単に知識の獲得、視野の拡大だけでなく、認識のレイヤーが一層分増加するみたいな。
その一端を、芥川賞直木賞の候補作を読むことで感じてもらえたら、日常生活のなかで少し違った〈余白〉が生まれてくるのではないでしょうか。

さて、このあとは直木賞の候補作を読んでいきます。

 

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