「ねじまき鳥と火曜日の女たち」(『象の消滅』所収)、読了。

後の『ねじまき鳥クロニクル』へとつながった作品として知られているが、現時点から読むとたしかに「終わっていない」という感じを受ける。
失業中の「僕」は、ある日妻に頼まれて飼い猫を探すことになる。しかし結局は猫を見つけることを主人公は果たすことができず、それを知った妻は暗い部屋で泣きながら主人公を静かになじる。
あなたが殺したんだ、と。

「あなたが殺した」とは、夫婦とはいえずいぶんな物言いだ。

「あなた、猫のことなんてべつに好きじゃなかったんでしょ?」
「そりゃそうかもしれない」と僕は認めた。「少なくとも君ほどはあの猫のことを好きじゃなかったかもしれない。でも僕はあの猫をいじめたこともないし、毎日ちゃんと飯をやってた。僕が飯をやってたんだよ。とくに好きじゃないからって、僕が猫を殺したことにはならない。そんなことを言いだしたら、世界の大部分の人間は僕が殺したことになる」
「あなたってそういう人なのよ」と妻は言った。「いつもいつもそうよ。自分では手を下さずにいろんなものを殺していくのよ」
僕は何かを言おうとしたが彼女が泣いているのを知ってやめた。

「僕」は彼女の真意を理解できぬままに部屋に立ちすくんで、物語はひとまず終わる。

おそらくは、主人公も気がつかないなにかの〈不作為のもたらした結果〉が彼を襲っているのだが、それがなにか彼には解らない。しかし妻はその〈不作為のもたらした結果〉の存在とその重要性に気がついている。
そのふたりのあいだにはその理解の〈溝〉がある。しかし読み手には明確に示されない。
それがこの物語の〈完結性〉をはばんでいるのだろう。だからというかそれゆえに、あのような長大な小説へと生まれ変わったのだろうと思う。

一見どこにでもありそうな夫婦喧嘩の物語のようだが、それまでの昭和時代的なものとは違った、異質な不穏な空気が漂っている。その不穏さがこの物語を大きくしたのかもしれない。
『ねじまき鳥クロニクル』が書かれたのは1991年ごろからである。平成がはじまってまもなく、湾岸戦争がはじまったあたりである。
その平成の御世ももうすぐ閉じる。この機会にまた一読してみたい。