「ニューヨーク炭坑の悲劇」(『めくらやなぎと眠る女』所収)、読了。
初期短編三部作(「中国行きのスロウ・ボート」「貧乏な叔母さんの話」)のひとつであり、その後の村上春樹作品の原点にもなっている短編だ。

この作品は難しいというか、一読しても正直訳が解らない印象が残る。

主人公の「僕」には、雨の日しかも台風とか集中豪雨のときに動物園に行く友人がいる。
その年はまわりで死んでいく人間が多く(じつに27,8歳という若さにもかかわらず)、「僕」は葬式があるたびにその友人に喪服を借りに行っていた。

「申しわけない」といつも僕は言った。
「どうぞ、どうぞ」といつも彼は言った。

ひとしきり葬式ラッシュが過ぎ去った12月のとある午後、「僕」はクリーニングに出しておいた喪服を返しに行く。ふたりでゆっくりとアルコールを飲んでいる。

その日からしばらくして、「僕」はとあるパーティに出席する。そこで見知らぬ女性に話しかけられる。彼女の知り合いに「僕」そっくりの人間がいるという。だが、その人物は《五年前に死ん》だのだという。

「ふうん」と僕は言った。
「私が殺したの」

彼女はその〈殺人〉を《法律上の殺人でも道義上の殺人でもない》という。

「五秒もかからなかったわ」と彼女は言った。「殺すのにね」

「僕」と彼女はその後とりとめない会話をして、別れる。
そして最後、この小説は、突然生き埋めになったらしい人たちの〈会話〉を置いて終わるのである。タイトル

さて、この小説をどう解釈したらいいのか。
ヒントはおそらく、主人公の友人たちの多くの死にある。若くして死んでしまった者たち、それを見送る「僕」。彼らはなにゆえに死んでいったのか。

予期せぬ殺戮が始まったのはその直後だった。不意打ちと言ってもいいだろう。
我々はのんびりとした春の日ざしの下で、洋服を着替えている最中だった。なかなかサイズがあわなかったり、シャツの袖が裏返しになっていたり、右足を現実的なズボンにつっこみながら左足を非現実的なズボンにつっこんでみたり、まあちょっとした騒ぎだ。
殺戮は奇妙な銃声とともにゃってきた。
誰かが形而上的な丘の上に形而上的な機関銃を据え、我々に向けて形而上的な弾丸を浴びせているようだった。

こうしてその年の終わりまでに6人ほどが死んでいったのだった。

このシークェンスだが、おそらくは〈政治の季節〉、それも70年代前半の日本の若者の置かれた政治的状況を暗喩しているのだろうと思ってしまった。はっきりというなら〈内ゲバ〉である。

この作品が解りづらいのは、〈政治の季節〉を〈寓話〉として描いているからだろう。いまの20代30代にはとても解りづらいと思う。

こんな作品から「村上春樹全短編踏破」をはじめてしまった。冒頭にその後の村上作品の原点、とまで言ったにもかかわらずうまく説明ができていない。稿を改めたい。