72回目の終戦記念日。1年以上あいだを開けて、宮崎駿「風立ちぬ」を観た。
細かいところを忘れていて、2時間以上ある映画は思った以上に新鮮。いくつかの発見もあった。この作品は、個人的には宮崎作品の中で1番好きなので(2番目は「ハウルの動く城」)、何度観ても新鮮に見えるというのはうれしいですね。

宮崎さんはこの「風立ちぬ」をもって引退宣言をいったんはしたので(2013年9月6日)、現時点では「最後の作品」ということになっているが、ご存知の通りもう一度〈復活〉することになっている(製作発表は現時点でまだ)。

その宮崎監督の新作ですが、本格的に作業に入るべく、先月も書いたように7月頭に社内で引越しを行い、制作系の各部署を新たな場所に配置しました。メインスタッフと制作進行は以前と同じ場所に戻りましたが、他の部署は今回変更があり、新鮮なレイアウトとなりました。7月3日(月)には午前中にメインスタッフに向けて宮崎監督が自ら作品説明を行い、その後、制作部門の新たなスタートということで〝開所式〞を実施。昼食を第1スタジオのスタッフ他で一緒に頂き気持ちを新たにしました。この後も徐々にスタッフが増える予定で、さらに制作は本格化していきます。(スタジオジブリサイトより http://www.ghibli.jp/info/011489/)

「風立ちぬ」は「坂の上の雲」を目指した時代

この作品の舞台は、明治時代の終わり(1910年代)から先の大戦の終戦(1945年)まで。
司馬遼太郎『坂の上の雲』を拝借して言うなら、日本が欧米列強を目標にして、〈坂の上〉を目指して〈雲〉を掴むべく上っていく時代だ。日本がロシアとの日露戦争に勝利したとき、堀越二郎は1~2歳で彼の半生は日本がその〈坂道〉を上っていく時期に重なる。

日本にとっては近代化こそが必須にして最大の目標であり、堀越の友人・本庄をして「何で日本はこんなに遅れているんだ。もっと欧米に追いつかなきゃいけない」と言わしめる問題意識が常にある。
しかし、堀越二郎はそんな意識とは別の価値基準を有していて、〈美しい/美しくない〉〈好き/嫌い〉で物事を判断している。それが彼の価値判断であり、それは恋愛対象にまで及ぶ。

やはり菜穂子の〈純愛〉物語

この『風立ちぬ』という映画を最初に観たときに、堀越二郎とその妻・里見菜穂子の〈純愛〉だというレビューがよく解らなかった。
むしろ、菜穂子の一方的な純愛なのではないか、というのが今回観てみた感想。

元来、(作中の)堀越二郎という人物は、性格がいびつである。
いびつというのは、〈人情味が薄い〉とでも言おうか。彼の眼中には徹頭徹尾、美しいものしか入ってこないし、そうでなければ愛さない。関心もない。

堀越二郎の伝記を読んだけれど、彼は自分の設計した飛行機が飛ぶのを見て「美しい」と叫ぶ。もちろん、実在の人物と映画の登場人物を混同しちゃいけないと諒解しているが、主人公の堀越二郎は人間としてあるいは日本人として、他人の心とか機微とかがよく解らない人物として描かれている。
それゆえに妹の加代をして、彼は「薄情者」と呼ばれてしまう。
でもそれを彼自身が否定するわけではない。「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないけど、よく解らない」という感じで、きちんと答えないし無視をする。

後に堀越二郎の妻となる里見菜穂子は、そんな彼の性格(価値基準)をよく理解している。
理解しているからこそ、結核に冒された身でありながら、いやそれを重々自覚しているからこそ、堀越に美しい自分しか見せない。
だから、菜穂子は彼を置いて、サナトリウムでひとり死んでいくのである。醜悪な自分の姿を彼に見せることは、堀越から嫌われるからである。

菜穂子の〈赦し〉

堀越はそんな彼女の心情を理解していたか。少しはあったかもしれない。でも、それは彼の価値基準を揺るがすことはしなかった。堀越はずっと堀越二郎のままで、この映画は終わる。

最後のシーンで、彼は夢の中にあらわれた菜穂子に
「あなた、生きて」
と言われる。
堀越は「有り難う、有り難う」と答える。菜穂子が自分を赦してくれたのだと彼は理解する。そうして映画はエンドロールに入るのである。

奇麗事のお題目を並べ立てていない作品世界

ジブリ作品なのに、子どもが楽しめるシーンがあまりないという心配は余計なお世話で、ぼくは二度観たが充分に楽しめた。やはり、この作品が一番好きだということも改めて認識した。
主人公は成長せず、世界は弱肉強食であり、人の価値基準にはいろんなものがあるという現実認識を取り繕うことなく、しかしその自体の価値観と人の生き様を丁寧に描き、奇麗事のお題目を並べ立てていない作品世界に共感した。

また時間を置いて、観てみたい。どんな感想が得られるか楽しみです。