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太宰治『人間失格』#2 【感想文】

 
  2017/08/15
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「太宰治『人間失格』を読む」のつづき。

太宰治『人間失格』#1 【感想文】

この小説は、主人公・大庭葉蔵の手記というかたちをとって進む。
「第一の手記」として幼年期の記憶からはじまり、青年期の「第三の手記」で終わる。前後には、第三者の視点で書かれた「はしがき」と「あとがき」が配置されているが、これは小説的な企みだろう。
葉蔵というのは、1933年に書かれた「道化の華」に登場したキャラクタである。ぼくは確認していないが名前だけではないか。

小説の詳しいあらすじは他に譲るとして、太宰自身はこの作品発表の1ヶ月後に、玉川上水へと入水事件を起こすことになる。
ということもあって、この『人間失格』という小説は〈太宰の遺書〉的な扱われ方をしてきた。死ぬ間際の勢いで書かれたとも言われた。主人公の大庭葉蔵は東北の金持ちの生まれとあり、太宰の分身と言ってもいいだろう。
しかしそのもっともらしさも、2008年には太宰の遺族によってこの小説の草稿が発表され、推敲を重ねたフィクションだったということが判明している。

そんな小ネタ(エピソード)のほうに、ぼくは本編より興味を抱いてしまう。
「第一の手記」よりは「第三の手記」のほうが気になる、というか、思春期の面倒くさい自画像の描写よりは、自堕落と自らを蔑みながらも花から花へと移りゆく優男(ダメ男)ぶりに目がいってしまうのである。
大庭はとどのつまりは、〈脳病院〉へと入れられてしまうのだが。
まあ、目がいくのは仕方ない。仕方ないというのは、要するに年齢による興味のありかたということです。

ちなみに、女との交情やらセックスにいたるまで描写には、視点をわざとずらし、読み手を視線をするりと抜けていくテクニックがうまく用いられていて、思わず上手いなあと呟いてしまう。それをもってしても、この小説が単純に〈書き殴った〉ものではないことには肯いていい。

閑話休題。
又吉のエッセイ『夜を乗り越える』では、「僕と太宰治」という章をひとつ立てて、太宰好きを見事に披露している。
ほんとに好きなんだね、太宰が。
そして、太宰の『人間失格』が好きだと公言すると、「お前、本そんなに好きじゃないだろう」と言われることはあっても、「お前、文学詳しいな」と評価されることはないと言う。

そして一番素晴らしいと思うのは、太宰という作家が、むちゃくちゃ文句を言われようがむちゃくちゃ褒められようが、びくともしないところです。僕みたいなもんが何を言おうが、太宰の評価になんの影響もありません。
嫌いな人は大嫌いだし、好きな人は大好きです。両極端な反応があり、読んだ後にどう思おうが読者の自由。

として、

「太宰が嫌い」ということは、しかも大嫌いということは、逆にすごく影響を受けているということでもあります。「おもしろくなかったから読まなければよかった」と言う人がいますが、「おもしろくなかったから読まなければよかった」と思えたことが大きいと思うんです。その人は自分の嫌いなものを知ることができた。
(中略)
何かを思える。好きだとも嫌いだとも思える。ヒーローにもヒールにもなれるということは特別な作家にしかできないことです。

好きの反対語は無関心。だとすれば、太宰と太宰の作品は、読む人間を映す鏡でもありうる。いや、それ以外の数多の小説もそうだ。
又吉が薦めている太宰の短編をいくつか読んでみるのは、自分自身の趣向を知る手かがりにもなるかもしれない。「駆け込み訴え」「親友交歓」「トカトントン」・・・。読むべき作品は数多あるようだ。

小林信彦は前出の本『面白い小説を見つけるために』のなかで、太宰の章をこう締めくくっている。

ある文芸誌の編集長が、ぼくに、太宰治は、あの、いかにも〈苦悩の旗手〉めいた写真と、後年のすぐれた評論家がが説得力ある太宰治論を書かなかったことで、イメージが狂っているが、虚心に読めば、はばが広く、奥深い作家ですな、と語ったことがある。ぼくの答えは記すまでもない。

さて、ここでぼくは一冊の本を取り出してみたいと思う。
猪瀬直樹『ピカレスク 太宰治伝』(小学館)。
〈苦悩の旗手〉のイメージは、いったいどこまでが本物なのか。〈虚実皮膜〉という言葉があるが、さてさてどこまでが彼にとっての本当のことなんだろう。
ちなみに、この評伝は映画にもなっている。ぼくは観ていないけれど。

 

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