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太宰治『人間失格』#1 【感想文】

 
  2017/08/15
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太宰治『人間失格』(角川文庫)、読了。

太宰に関しては、何を書いても、石が飛んでくるという気がする。これは、ぼくが臆病だから、とか、被害者妄想の気味があるから、というだけではない。ぼく自身、他人が太宰治をホメていたりすると、内心、バカが・・・と呟いたりするからである。熱狂的な信者でないぼくにしてそうなのだから、推して知るべし。太宰治のカリスマ性のなせるわざである。(小林信彦『面白い小説を見つけるために』より)

と小林信彦が言っているくらいだから、これから書いていく『人間失格』については、なにをされるか解ったもんじゃない。

いつだったか、読書会で課題テキストとして又吉直樹『夜を乗り越える』(小学館よしもと新書)というエッセイを取りあげたが、この本で『人間失格』はあちこちで触れられている。
作者のお気に入りの一冊なのだ。
その本と作者との出会いは、中学2年、14歳のときだった。友人が「お前みたいな主人公がでてくるから読んでみ」と『人間失格』を又吉に手渡した。

学区の関係で僕の住んでいる地域だけ、同じ小学校の人達とは別の中学校に進みました。僕は小学校時代、明るく生きなければなりませんでした。本当は暗くて、いつも頭の中でひとり悩み考えている人間なのに、だから中学校に入ることによって一気に自分を変えることができました。中学一年生の時は難波(作者の友人:引用者註)以外誰ともしゃべらないでいられました。中学デビューの反対。もう無理することはやめる。完全に切り換えることができました。

又吉少年は、幼いときから、とくに周囲の大人との距離感にひとり悩んでいた。そんな又吉少年にとって、『人間失格』の主人公・大庭葉蔵は自分と重ね合わせられる存在であることを知る。
又吉さん、このあたりわりとストレートに話す。

『人間失格』には最初から最後までずっと掴まれっぱなしでした。大庭葉蔵の言動の一つひとつを、これはウケる。あっ、これは自分もやったことがある。これもウケる。この主人公は自分と一緒だと思いました。太宰にはまる多くの読者がそうであるように、「太宰という人はなぜ僕のことがわかるのだろう」と不思議に思いながら、どっぷりとはまっていきました。僕にとって『人間失格』は特別な本になりました。

又吉少年にとっては、近代文学(太宰治のほかに芥川龍之介や武者小路実篤との出会いも語られている)とは、お笑いやファッションや音楽と同等に、刺激的で、ドキドキを与えてくれるものだったという。

それまで僕は、誰ともキャッチボールができませんでした。ひとりで考えひとりで壁にボールをぶつけていました。自分の頭の中で考えがめぐるばかりで答えは出ませんでした。変な人間に生まれてきてしまった。もうどう生きていったらいいのかわかりませんでした。
でも本に出会い、近代文学に出会い、自分と同じ悩みを持つ人間がいることを知りました。それは本当に大きなことでした。

ここまで言われたら、太宰も作者冥利に尽きるだろう。『人間失格』を49歳ではじめて読んだオッサンが、何をか況んやである。
ましてや思春期の入り口に立っていた少年と、少しは世間様とはなにかを知っているオッサンとは、読後感が違って当たり前だ。
14歳なら、世間(とその空気)と自意識との落差の激しさゆえに、この本は自分を肯定してくれる存在として大いに受け入れることができるだろう。
五十路前の男にとっては、まあ「青春の蹉跌」といったところだろうか(ここ、笑うところじゃない)。という感覚を覚えるのと同時に、「知ったような賢しら口でなにを言うか」と自分自身に思ったりする。

文学というのは、ある年齢までに咀嚼しておかないと、なにかを取りこぼしてしまうものなのかもしれない。(この章、つづく)

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