ときどき、なぜかこの小説のことを思い出す。
思い出すと、タイル貼りのひんやりした床に素足を思わず置いてしまったような感覚に襲われる。

トルーマン・カポーティ『冷血』(佐々田雅子訳、新潮文庫)、読了。

『冷血』をはじめて読んだのは、たぶん大学生のときのことで(もちろん、村上春樹の影響)、そのときは龍口直太郎訳版だった。
新訳は、映画「カポーティ」の上映にあわせるかのように刊行されている。佐々田訳を手にしたのは読書会かなにかのきっかけで再読の必要があってことだったはずで、読んだあと瀧口訳よりガラスの曇りがとれたような感じになっている印象を受けた。

『冷血』は1966年に発表された。1959年1月、アメリカのカンザス州ホルカムで起きた農場主一家惨殺事件を追った、カポーティいうところの「ノンフィクション・ノベル(実際の事件や事実に基づいて構成された小説)」である。

被害者はみんなロープで縛られ、至近距離から散弾銃で射殺されていた。その事件に興味を抱いたカポーティは6年近くの歳月を費やして綿密な取材を行った。そして犯人2名が絞首刑に処せられるまでを見届けた。
『冷血』は発売とともにブロックバスター的な売れ方をして、アメリカ文学史上『風とともに去りぬ』以来の成功とまでいわれたという。

しかし、一読したときもそうだったが、冒頭から風景や人物の描写がつづき、殺人事件とはあまり関係ないエピソードがこの作品からスピード感とかスリルを減殺しているようにも思える。
最終章の精神鑑定のくだりは、どうも余分な感じを受けた。構成としては、この種のストーリーとしては、「逮捕」「じっさいの殺人の描写」「処刑」がそれぞれ山場を作っていくはずだが、殺人の瞬間は意外なほどあっさりとしている。

一方で、映画のほうへと目を向けてみよう。
そのストーリィは、ずばり「メイキング・オブ・『冷血』」である。カポーティは農場主のクラッターを殺した二人組のうち、ペリー・スミスに接近していく。
死刑判決が当然の彼らにたいして、カポーティは自分と自分の作品のために、彼らから充分な話を聞くまで、死刑執行をさせないように画策する。彼は自分と似たような幼年の境遇だったペリーに肩入れ(同情)していた。

同じ家に生まれ、正面玄関から出て行ったのが自分で、裏口から出て行ったのがペリーだ。

だが同時に、彼は作品が完成するためには、ふたりの死刑が必要だとも直感で感じていた。

○ハリソン・スミス(弁護士)
「(中略) 死刑に関して-その是非について-トルーマンと話しあった覚えはない。この世の終わりまで議論したところで、満足のゆく答えは出ないだろう。
時がたつにつれ、トルーマンはあの二人に心からの共感を抱くようになり、彼らが処刑されるのを見たくなかったんだと思う。あの本に関する限り、彼らが絞首刑だろうが、終身刑だろうが違いはない。彼はただ、最終的な裁定がどうなるか知る必要があった。少なくとも、彼はいつもそういっていた」(ジョージ・プリンプトン『トルーマン・カポーティ』新潮文庫)

「どうなるか知る必要があった」のは、事件の結末あるいは区切りとしてではなく、自分の作品を完結させるための欠くべからざる一点だったのだろう。
彼は殺人犯であるペリーを愛し、そしてそれ以上に自分を愛していた。そして、後に『冷血』と呼ばれる作品のことを思っていた。つまりは優先順位の問題にすぎなかった。

カポーティの旧友であり、事件の取材に同行したハーパー・リーは、映画の最後のほうで、こうカポーティに電話口で言う。

あなたは(彼らを)救いたくなかったのよ。

残酷だが、カポーティ以上にカポーティ自身を彼女がよく知っていたという証だろう。自分のために殺人犯を生き延びさせ、自分のために彼らには救いの手を差し出さなかった。
彼は作家として生きることを選択したのだ。

しかし、その〈業火〉は『冷血』以降、彼の創作意欲を焼き払ってしまったように見えた。『冷血』以降のカポーティは、この作品を超えるような、あるいは超えたと評価されるような作品は遂に書けなかった(口では『叶えられた祈り』がそれだということは吹聴していたが)。

私は、冷血を書くのに五年、それから回復するのに一年かかりました-回復といってよければですが。いまでもあの体験のなんらかの場面が私の心に影を落とさない日は一日もないのですから。(「自画像」、『犬は吠えるI』所収、ハヤカワ文庫)

サマセット・モームは言った、「書けなくなるのではない。人生という鉱脈の中で、素材が作家を見捨てるのだ」と。

○ジョー・フォックス(編集者)
「ニューヨークへ戻る飛行機で私はトルーマンの隣に座った。彼は私の手を握り、道中のほとんどを泣きつづけた。近くの乗客にはさぞかし妙な光景に思えたことだろう-いい年をした二人の男が手を握りあい、片方はすすり泣いているんだから。長い旅だった。『ニューズウィーク』を読むとか、そんなことさえできなかった・・・トルーマンにずっと片手を握られていたから。しかたなく、まっすぐに前を向いていたよ」(ジョージ・プリンプトン『トルーマン・カポーティ』)

『冷血』は、ひとつには、善良な一家を躊躇することなく惨殺した犯人の「冷血」を描いた。
そして、ふたつには、殺人犯の人生の暗部を抉りだしながらも、作品のため死刑の延長を望みながら、死刑の実行を望んだ作家自身の「冷血」が感じられた。
映画『カポーティ』で、主人公のカポーティを演じたフィリップ・シーモア・ホフマンが死んで何年になるか。享年46。ホフマンの、あの甲高い声が、まだ耳の底に残っている。